野生動物を保護するたびに思うこと

先日サルの右腕を切除する手術の助手をさせていただきました。

残念ながらこれ以外選択肢がなかったのですが、それでも悲しかったです。

野生動物の保護現場でこのような選択肢を取らざるを得ない際、いつも

「この動物は命を助けられて感謝しているだろうか?」

と思っています。


ペットであれば飼い主次第、家畜であれば術後の経済価値次第でその動物の生死が決められます。

野生動物でも希少な動物であれば助ける価値があると思います。

ですが今回のサルのように特に絶滅の危機に瀕していない野生動物を助け、身体が不自由な状態で野生に返したり、保護施設で一生を終えるまで飼育されるということを強いるのは人間のエゴなのではないかと毎回疑問に感じています。

もちろんその後のQOLが著しく低くなる際は安楽死させることもあります。

ですが動物たち自身がどのように思っているのかを考えずにとりあえず助けるという場合がほとんどです。

タイの施設では五体満足でないサル専用のゾーンがあり、手や足が片方無い個体や中には手足を全て切除されたサルもいました。

彼らは僕たちが助けなければ自然の摂理にそってただ死んでいくだけです。

それを無理やり生かして、不自由な身体でその後の生活を送るという事を彼らは望んでいるのでしょうか。


長いこと動物のことを思ってきた僕が考えるに動物の幸せとは、

動物らしい生活を送ること。

だと考えています。

ここでの”動物らしい”とはつまり、
サルは自由に木を登り、鳥は空を翼を広げて飛び回り、チーターは獲物をめがけて全力で草原を走り、イルカは仲間とコミュニケーションをとりながら泳ぐ、
というような当たり前のことです。

確かに時には天敵に襲われたり、エサが手に入らない日もあれば、常に縄張りを警戒していないといけない、ということもあるでしょう。

ですがそのようなこと全部を含めて”動物らしい生活”なのです。

たまに動物園などで飼育されている動物に対して、
「彼らはエサを毎日十分に与えられ、天敵に襲われることもないもないので幸せだろう。」
と考えている人がいます。

数年前にテレビでとある動物園の園長さんがこのような考えであった上に、
「自然界で動物はエサを探す以外はほとんどの時間寝ている。動物園ではエサを探す必要が無くいつも寝ていられるので幸せだ。」とおっしゃっていました。

動物たちに聞かない限り真相は分かりませんが、僕は違うと思います。

1日に数十キロも移動し、遠く離れた仲間ともコミュニケーションのとれるゾウがコンクリートでできた狭い檻に閉じ込められていたり、野生では100km/hの速度でも走ることのできるチーターが歩くことしかできない場所に押し込められているのを見て彼らが幸せだとは到底思えません。

「すべての動物が人間の影響を受けずに動物らしく生活できる世界。」
を作ることに1人の獣医師として貢献していきたいと常々考えています。


話は戻りますが、今回のように保護され”動物らしい生活”を送ることができなくなった野生動物たち。

本来であれば死にゆく命を無理やり拾われ、彼らは僕たちに感謝しているのでしょうか、それとも怒っているのでしょうか、悲しんでいるのでしょうか。

だれも知ることはできません。

彼らと話すことができたらいいのにと何回思ってきたことか。

ドリトル先生がうらやましいです。


野生動物保護団体である限り、ケガした動物が運ばれてきたら助けることのできる命は助けるのが使命です。

動物の命に携わる者として当たり前のことですが、保護する際に人間の都合だけでなく、動物の視点からも、つまり、彼らがどのように考えているのかということまで思いを馳せながら野生動物と付き合っていきたいと思いました。

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