皆さんは「水俣病」という病気を聞いたことがあるでしょうか?
多くの人は学校で学んだことがあるかもしれません。僕の地元でも発生したので学校で習いました。
この病気は日本の公害の原点と言われる病気で、高度経済成長の弊害とも言われています。
近年はプラスチックの海洋汚染などが大きな問題となっていますが、この事例から何か学べることがあるのではないかと思い今回調べてまとめてみることにしました。
新潟が地元なので熊本より新潟中心で書いています。
水俣病とは
化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚、エビ、カニ、貝などの魚介類が直接エラや消化管から吸収して、 あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的にたくさん食べた住民の間に発生した中毒性の神経疾患です。
イタイイタイ病との違い
水俣病との大きな違いは原因物質がカドミウムであることです。
鉱山からの排水にカドミウムが含まれており、これが米や野菜に蓄積したり飲料水に含まれていたことにより体内に取り込まれ、腎臓の障害や骨軟化症を引き起こしました。
どこで発生したの?
1956年に熊本県で発生が確認されました。水俣湾の周辺であったことからこの名前が付けられました。
9年後の1965年には新潟県の阿賀野川周辺で発生しました。
発生状況
熊本県では20,401人が水俣病の患者であると申請し、1,780人が認定されています。
新潟県では2,635人が申請し、715人が認定されました。
しかし、病気を隠し続けて亡くなったり差別・偏見を恐れて名乗り出ていない人も大勢いたので、被害の実態は正確には分かっていないそうです。
メチル水銀はどこから生まれたのか
水俣病の原因となったメチル水銀はどのような過程で生じたのでしょうか。
アセトアルデヒドを精製する際にアセチレンに水を加える必要があるのですが、この際に触媒として使用された硫酸第二水銀が変化して、メチル水銀が精製されました。
この時代は経済発展が最優先であり環境問題に対する意識が低かったため、メチル水銀は処理されないまま川に流されました。
水俣病が起こるまでの経緯
ー熊本県ー
水俣病が最初に発生した熊本県水俣市には、明治の終わりに日本窒素肥料㈱が設立されました。
戦後の高度経済成長期では重化学工業が推進され会社はどんどん発展していき、これに伴い水俣市も成長していきました。
1950年代前半から魚の大量死や猫の怪死が相次ぎ56年に手足の麻痺を訴えた患者4人が水俣市の病院に入院しました。これが水俣病の公式発見の日とされています。
熊本大学の研究班が水銀が原因であるとの見解を示し、汚染源としてチッソ水俣工場を指摘しました。
しかし、同社は他の物質が原因であると主張し化学工業会が開いた有識者会議でも有機水銀説が否定されたため原因の究明は難航しました。
熊本大学の研究班はその後も調査を続け1963年についにメチル水銀が原因であることを突き止めましたが、アセトアルデヒド生産は続けられました。
結局1932年から1968年の37年間にかけてチッソ水俣工場でアセトアルデヒドが生産されていました。
―新潟県―
阿賀町は昭和初期まで薪炭や木炭を特産とする山村地帯でしたが、戦前に昭和電工鹿瀬工場が設立されました。工場ではアセトアルデヒドが生産されていました。
1965年に原因不明の疾患を患っていた患者が新潟大学附属病院で診察を受けたところ有機水銀中毒の疑いが持たれました。
後にこの患者の頭髪を検査したところとても高い値の水銀が検出されます。
同じ年に他にも数名の患者が現れ、有機水銀中毒患者が発生していると正式に発表されました。
発表直後に新潟県は「有機水銀中毒研究本部」を設置し、約6万9千人を対象に調査を行いました。
1966年に昭和電工鹿瀬工場の排水が原因であると各省庁に報告しましたが、経済産業省が資料が不十分であると反論し結論は保留されました。
その後厚生労働省の研究班が原因は昭和電工鹿瀬工場の排水であると報告し、新潟大学も工場の排水が原因であると明らかにしました。
昭和電工鹿瀬工場はこれを否定し、1964年に発生した新潟地震によって流出した農薬が原因であると主張しました。
昭和電工鹿瀬工場は1968年に政府統一見解で同工場が原因であるとの発表があった後も農薬説を主張しましたが、1971年の裁判で原因は工場排水であることが確定しました。
原因となった工場は?
熊本で発生した水俣病は、チッソ水俣工場が、新潟県で発生した水俣病は昭和電工鹿瀬工場が原因だと断定し、これらを公害として認定しました。
この統一見解の発表は、新潟県の患者発見から3年、熊本県の公式発表からはなんと12年もの月日が経っていました。
メチル水銀が体内に入るまで
工場から川に排出されたメチル水銀は、水生昆虫やプランクトンに取り込まれます。
この段階では濃度はとても低いですが、川魚がそれらを食べることで食物連鎖を通して大量のメチル水銀が体内に蓄積しました。
川魚はエラや体表からも取り込むため、数万から数十万倍もの高濃度に濃縮蓄積されていきました。
これは「生物濃縮」と呼ばれます。
この川魚を水俣病が発生した地域の人は日常的に食べており、その人たちの体内に高濃度のメチル水銀が取り込まれていくことになりました。これらの地域ではほぼ毎食魚介類を食べていたそうです。
体内でのメチル水銀の動き
体内に取り込まれたメチル水銀は消化管から95~100%が吸収されます。そして血液により全身の臓器に運ばれ、特に肝臓と腎臓に多く蓄積します。
メチル水銀は他の有機水銀化合物とは異なり、血液脳関門や胎盤関門を容易に通過できる性質を持ち、脳内へと移行し中枢神経に蓄積し、神経症状や精神症状が引き起こされます。
また、胎盤を通過することで母親から胎児にメチル水銀が移動し、生まれながらに水俣病を発症する胎児性水俣病があります。
血液脳関門
血液から細胞外液または中枢神経系への物質の移動を制限する構造。これにより、必要な物質が血液中から脳に供給され、逆に脳で産生された不要物質が血液中に排出されるようになっている。
水俣病の症状
典型的な症例の神経症状は、手足の抹消の感覚障害(しびれがあったり、痛覚などの感覚が低下する)、運動失調、言葉がうまく話せない、視野狭窄、聴力障害、振戦などがあります。
重症者では狂躁状態、意識障害があり、死に至る場合もありました。
被害者の大多数は上にあげた症状の一部しか発症していない場合が多く、水俣病であるか判別しづらく、外見からは健康な人との判別が困難であったそうです。
治療法は現在でも確立しておらず、痛みを和らげる対症療法やリハビリ療法が治療の中心となっています。
また、先天性の胎児性水俣病では成人の場合と比べて重傷者が多く、知能障害、発育障害、言語障害、歩行障害、姿態変形など脳性麻痺の症状が見られます。
新潟県で確認されている胎児性水俣病患者は1名だけです。このように最小限の被害にとどまったのは、水俣病発生初期に妊娠可能な女性に対する受胎調節指導があったからでした。これは水俣病を防ぐうえで効果的でしたが、人権侵害との声もあります。
差別と偏見
水俣病が発生した当初は原因が分からず、「タタリ」「伝染病」と誤解され、地域から孤立することもありました。仕事をやめさせられたり、子供の就職や結婚にまで影響することもありました。
また、患者申請をして棄却されたときは「ニセ患者」と中傷され、認定されると補償金をもらえることから「金目的」などと揶揄されることもありました。こうした差別を恐れて多くの人が水俣病であることを隠していたと考えられます。
このように水俣病は体だけでなく心にも多くの傷跡を残していきました。
漁業への影響
水俣病が公表されると、水俣病の発生地域で捕れた魚というだけで売れなくなり敬遠されました。
これらの地域では捕っても売れないので捕らなくなり、新潟県の阿賀野川周辺では遡上魚は約23%、川魚では約66%も漁獲高が減少しました。
1965年には新潟県から漁業組合に対して、阿賀野川下流域での漁獲規制などが適用されました。
1978年に阿賀野川の安全宣言があるまで食用制限は続けられました。
水俣病の発生以来新潟県は川魚の総水銀値とメチル水銀値を計測してきましたが1994年以降は基準値を超える個体は見つかっていません。
その地域から水俣病患者が出ると魚が売れなくなることから、地域ぐるみで水俣病隠しを行った漁民たちもいました。
新潟県での被害者たちの戦い
水俣病の被害者たちは補償と救済を求めて訴訟を起こしました。
1965年に発生し、1967年に新潟水俣弁護団が結成されました。
―第1次訴訟―
・概要
患者77人が昭和電工に約5億3,000万円の損害賠償を求めました。
・判決
阿賀野川に発生した水銀中毒は昭和電工に過失があるとの判決で、総額2億7,000千万円の賠償金を手に入れることができました。
―補償協定の締結―
第1次訴訟の後水俣病の被害はますますの広がり、認定患者が300人を超えました。
賠償金が低額であったこと、再発を防止することなどから被害者たちは統一要求をまとめ昭和電工に対して直接交渉することにしました。
被害者らは署名活動などに取り組み、十数回の交渉を経て1973年に補償協定が結ばれました。
その協定により認定患者に対する一次補償金、年金給付、医療給付などを手に入れることができました。
―第2次訴訟―
・概要
1982年に国の基準で水俣病と認められなかった患者94人が国と昭和電工を相手に損害賠償を求める訴訟を起こしました。1989年の8陣までの提訴により234人が51億4,800万円の損害賠償を求めるものとなりました。
・判決
第1陣を分離した1992年の判決では88人が水俣病患者として認められ、5億7,800万円の損害賠償を得ることができましたが、国の責任については認められませんでした。
昭和電工と原告の両者がこれに控訴し、裁判は長引いていきました。
早期解決のため与党3党から最終解決案が提示され、この内容を踏まえて1995年に被害者団体と昭和電工の間で解決協定が結ばれました。
裁判所の判決までに10年、政治解決による和解までに13年半の年月を要し、この間に43人もの原告が亡くなりました。
体が麻痺していてつらいと思われる中、13年も戦い続けた患者の皆さんのご苦労は想像することができません。しかも平均年齢もおよそ60歳と皆さんご高齢でした。運動の最中は差別を恐れて、裁判で争っていることを周りに知られないために、途中で着替えたり、最寄りでないバス停から乗ったりしていたそうです。
水俣病は過去の問題ではありません
工場がメチル水銀を処理せずにそのまま川に流すことはなくなったため、新しい被害者は発生しません。
しかし、今でもこの病気で苦しんでいる人たちはたくさんいます。
損害賠償や認定を求める裁判は今でも続いており、今月(2020年3月)にも胎児・幼少期にメチル水銀に汚染されたとして8人が国・熊本県・原因企業に損害賠償を認めた訴訟がありました。残念ながら敗訴となりましたがこのように患者さんたちの戦いは続いています。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591766/
最後に
水俣病は経済発展を優先させ、他のことを顧みていなかったために引き起こされました。
しかし、地元の人たちを始め日本全体がこれらの工場の恩恵を受けていたことも確かです。
いま私たちがこのように豊かな生活を送ることができているのも、このような工場による経済発展があったからといえると思います。
水俣病を教訓として私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。
現代社会はとても快適ですがこれを維持するためにかなり地球に負担をかけています。
水俣病では人間に害は無いと思って川に流した排水が食物連鎖を通して最終的に人間に牙をむきました。
普段の生活では意識されないことですが、私たちも自然の中の一部で他の生き物たちと同様に地球に生きていいることを水俣病は思い知らせてくれるのではないでしょうか。
地球温暖化を始め、森林伐採、プラスチックの海洋汚染などの環境問題があります。
プラスチックに関していえば、毎年およそ800万トンが海に流れていると推計されており2050年には世界の海のプラスチックごみの重量が魚を上回るとされています。
海の動物にはもうすでに被害が出始めています。胃がプラスチックで埋め尽くされた海鳥やクジラの写真を見たことのある人もいるのではないでしょうか。
もちろん人間にも影響はあります。海に流れていったものが細かくなり魚など海の生き物に取り込まれ、それを食べている私たちは週に5gものプラスチックを摂取しているそうです。
これはクレジットカード1枚分に相当します。まだ目に見えて健康被害はでていませんが、私たちが無責任に海に流しているプラスチックが徐々に体を蝕んできていると思います。
水俣病のような悲劇を二度と起こさないためにも、私たちは自然を「利用」するのではなく、自然に生かされていることを自覚し自然と「共生」していくことを心に留めておかなければならないと思います。
日本で発生した水俣病を通じて私たちの身勝手な経済活動がどのような結果をもたらすのかということについて考えていただけたなら幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考
「新潟水俣病のあらまし」 2016年 新潟県
http://nimd.env.go.jp/archives/tenji/a_corner/a03.html
http://www.soshisha.org/jp/about_md/ma_situation/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85%E8%AA%8D%E5%AE%9A%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E9%96%A2%E9%80%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88%E8%B3%87%E6%96%99%EF%BC%88%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E3%83%BB%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E3%81%AE
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/seikatueisei/1356918449093.html